県指定史跡「杢ヶ橋関所跡」旧定番役宅建物の調査を行いました。
杢ヶ橋関所跡は、群馬県渋川市南牧に所在する史跡で、渋川駅から北西約4kmに位置します。江戸時代、関東と越後・佐渡を結んでいた三国街道が吾妻川を超える位置に置かれた関所の跡で、敷地内には定番(じょうばん)と呼ばれる当時の関所役人の住宅が遺されています。
三国街道
三国街道は、佐渡奉行の往来や越後の大名の参勤交代路、また商人荷物の流通路として重要な役割を果たし、杢ヶ橋関所においてこれらの出入りを取り締まったのです。
杢ヶ橋関所は初め船橋、のちに刎ね橋となりましたが、吾妻川の増水により橋がよく流さされたそうです。
金井宿の本陣跡には、街道を行き来する罪人を留めておいたと思われる地下牢があり、渋川市重要文化財に指定されています。
三国街道
高崎から越後の長岡を結ぶ「三国通り」などと呼ばれた街道に、江戸幕府が治安維持のために関所を設置しました。
上野の国は交通の要所であり防衛に重要であったため、上野の国だけでも14か所の関所が設けられたのですが、三国街道は、佐渡金山との行き来、越後と関東の物流、大名の参勤交代などで重要度の高い街道であったので、吾妻川に面するこの杢ヶ橋の関所と三国峠の入口の猿ヶ京の関所が設置されました。
杢ヶ橋関所
この関所は、元和6年(1620)に初め番所として設置され、寛永20年(1643)に杢ヶ橋関所と改められました。番所の時代からそれらは大名によって預かり管理されて、初めに安中藩の井伊直勝が管理しました。次に正保2年(1645)安中藩の水野元網が、その後寛文7年(1667)には高崎藩の安藤重博が管理し、その後多少の紆余曲折はあったが、基本的に高崎藩によって明治の関所の廃止まで管理されたのです。
関所役人にはそこを管理する藩の家臣がなりました。
杢ヶ橋関所の場合は目付が1人と与力が2人赴任し、2か月で次の者と交代したそうです。このほかに定番といわれた者が3人、地元から選ばれて世襲で勤務し、敷地内に役宅を与えられていました。また門番が1人同じく役宅が与えられていました。実質的に関所の管理・運営は定番と呼ばれる、この人達が行ったのです。
旧定番役宅建物
私たちが調査を行った建物は、当時の定番役の住宅です。武士でありながら養蚕も行いっていたようで、当時の下級武士の役宅の姿がそのまま残っているなど、あまり他に類を見ない貴重な遺構であります。
特質すべきは、現在のご当主は当時の定番役の子孫なのです。移築され、当時の土地と離れた場所に建つような例とは違い、この土地や家の歴史を世代を超えて受け継がれている、素晴らしい史跡です。
建物の価値とは、建物自体の珍しさや立派さだけではなく、こういった周辺環境を含むものだということがわかります。